山羊の歌(一部)
- 中原中也
- 底本:「中原中也詩集」岩波文庫
- (平成二二年五月一二日(水) 午後五時二分二四秒 更新)
修羅街輓歌
関口隆克に
序歌
忌(いま)はしい憶(おも)ひ出よ、
去れ! そしてむかしの
憐みの感情と
ゆたかな心よ、
返つて来い!
今日は日曜日
縁側には陽が当る。
――もういつぺん母親に連れられて
祭の日には風船玉が買つてもらひたい、
空は青く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……
忌はしい憶ひ出よ、
去れ!
去れ去れ!
II 酔生
私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
私の青春も過ぎた。
ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあむまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!
それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。
いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……
III 独語
器の中の水が揺れないやうに、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
さうでさへあるならば
モーションは大きい程いい。
しかしさうするために、
もはや工(くふ)夫(う)を凝らす余地もないなら……
心よ、
謙抑にして神恵を待てよ。
IIII
いといと淡き今日の日は
雨蕭(せう)々(せう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡(あは)き空気にて
林の香りすなりけり。
げに秋深き今日の日は
石の響きの如くなり。
思ひ出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。
まことや我は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。
それよかなしきわが心
いはれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。